松山ケンイチさん、長澤まさみさん主演で公開された映画「ロストケア」
母親が介護職に就き、高齢の実母の介護をしている筆者としては、介護は非常に身近なものです。
原作小説を読んだ後は、しばらく答えのない答えを考え続けて浮上できませんでした。
映画のあらすじと、映画を観た感想を書いていきたいと思います。
映画「ロストケア」の予告
映画「ロストケア」の超個人的感想
柄本明の演技に圧倒された。
柄本明が画面に登場している時だけはまるでドキュメンタリーでも見ていると錯覚するかのような存在感だった。
確かにそこに存在していた人間として説得力がすごい。
役者の底力を見た気がした。
「世の中には見えるものと見えないものがあるのではなく、見たいものと見たくないものがある」
「安全地帯」「綺麗事」「偽善者」「誤った正義感」
心に突き刺さる言葉だった。
斯波の立場に陥った時に、自分はどんな行動ができるのか。
斯波の立場に陥った人を目の前にして、自分はどんな行動ができるのか。
「想像できるか、できないか」にも大きな差があるが、いくら事前に入念に想定していても、実際にその状況に陥った時に見える景色とは雲泥の差がある。
その隔たりが上記の言葉を生むのだろう。自分はどうなのだろうか。
この映画を観た後に自分で深く考えたり、身近な人と話し合うことができることが、この映画の役割なのかもしれない。
面白い・面白くないを越えた「日本の行く先への問題提起」として、非常に意味のある作品なのではないかと強く感じる。
大友検事の独白に疑問

出典:SEGA
こんな重いテーマを映画にできるのか?と見るまでは全く予想できなかったが、俳優さん達の演技やストーリーもとても素晴らしかった。
唯一疑問があったのは「大友検事」が抱える家庭問題について。
小説にはない映画独自の設定として、
- 両親が幼い頃離婚して、母親に女手ひとつで育ててもらった
- 20年ぶりに父から連絡が何度も来たが「なぜ今更?」と取り合わなかった
- その数か月後、父親は亡くなった。数か月後に発見されて娘である大友検事に連絡が入る
- 父親のアパートに向かい、変わり果てた父親と、現場を確認する刑事に対応する
という描写がある。
これは致し方ないことだったのだと自分に言い聞かせて、その罪悪感にずっと蓋をして生きてきた大友検事だが、現場の光景や父の最期の姿が脳裏に焼き付いていて離れず、
「自分が連絡を取っていれば、父は亡くならなずに済んだ。自分が父を見放した」
と後悔と自責の念がどんどん大きくなっていった。
刑務所にいる斯波に面会に来た大友検事は、自分の身の上話を始める。
また、「ずっと昔に別れた夫婦だから、今更伝えることはない」と自己判断して母にも告げずにいたが、痴呆症が進む母親にも父親のことをやっと話すことができ、母親は幼い頃のように「よしよし」と頭を撫でてくれた、と。
「そして、斯波さん、あなたのことを思いました」と、涙ながらに斯波に伝えて、映画が終わる。
このシーンを見て「え?何でそんな話をわざわざ面会に来て斯波にしているの?」とちょっと引いてしまった。
斯波に救いを与えたかったのかもしれないが、拡大解釈した正義感で多くの人に命を奪った斯波に、大友検事はあくまでもその罪を追求する側であって、あからさまに歩み寄ってはいけないと思う。
しかも、斯波の正義感や使命にぶつけるには、大友検事が抱える家庭の事情が弱い。
20年以上会っていない父親に情が沸かずに突っぱねたことに罪悪感や自責の念を抱えるのも分かるし、それを母親に言えずに抱えていた苦しみも分かる。
しかし、その事情は泣いて斯波に話すことか?と思ってしまう。
女で1つで育ててくれた母親を見放して孤独に旅立たせたのならまだ分かるが、斯波は懺悔部屋の神父じゃないぞ、と。
原作の大友検事はより「葛藤」が描かれていた

原作小説では大友検事は男性なのですが、犯罪者を逮捕して送検するだけではなく、罪を犯した者に対して正論で追及して「罪を思い知らせる」こと、自分の罪を認めさせて「悔い改めさせる」ことが自分の役割だと信じていた。
その大友を高校時代から「正論を振りかざす」「偽善者」と内心快く思っていなかった同級生も登場するなど、大友検事に深く根付いている「人間には生まれながらに備わっている善性があるという希望」「正しさを追求する信念」と、それらを取り巻く人間模様や実状が描かれていく。
その大友検事の背景が「斯波の正義」との対比となり、2人の対決により深みが増していた。
また、下記のような様々な出来事から、自分の事を棚に上げ、容疑者の背景も顧みずに他人の罪を追及してきた傲慢さを痛感し、大友検事の「正義や信念の揺らぎ」も丁寧に描かれていた。
- 斯波の犯行に「救われた」と話す被害者家族
- 自分の転勤に合わせて数年おきに転居を繰り返し、子育てと慣れない土地での生活で負担が大きくなっている妻に気づきながら、激務に追われて見て見ぬふりをしている。
→妻が精神的ストレスで倒れ、別居することになる - 自分の財力で高級老人ホームに入って安全地帯にいる大友検事の父親が、斯波の事件を知り「あの犯人、そんなに悪くねぇよ」と大友検事に話す。
また原作での斯波は、自分が起こした犯罪をきっかけに日本中で大論争が起こることも狙いで「介護についての問題提起をしたい」という真の目的があった。
「ふざけるな!」と、斯波の行動を全肯定することは出来ないながらも、社会全体に介護問題を広く周知する手法として優れている(むしろこのくらいの衝撃が必要だった)ことを痛感して、やるせない気持ちになる大友検事が描かれている。
ここまで背景を掘り下げることは映画では難しいことは分かるが、「検事」という立場で事件と向き合った葛藤をもう少し描いて欲しかった。
筆者の捉え方がひねくれているのかもしれないが、泣きながら気持ちを吐露する大友検事に必要以上に「女性性」を感じてしまって、違和感があった。
「斯波に対しての救い」に当たるのかと推察するが、個人的にはなくて良かったと感じる。
筆者と両親の話
老後や介護が比較的身近にある環境で生きている筆者は、これらのことを考える機会は多く、家族での話し合いも頻繁に行っていて、あくまで現時点でだが答えは出ている。
「絆が呪縛になる前に手放す」
血の繋がりは唯一だけど絶対ではない。
父が奔放な人生を送っていたため異母兄弟が多い筆者は、そう思って生きてきた。
家族仲は悪くなかったが、それ以上に大切なものがあるならば血を分けた両親や兄弟をある意味見捨てることも致し方ないと思っている。
特に自分が子供を産んでからは「親として子供を優先して守る責任がある」と、実子に負担がかかることなら自分の家族は断ち切る覚悟が生まれた。
それを家族にも伝えているし、お互い納得はしている。
実際に、アルコール依存症で家族に迷惑をかける父と、その父と共依存状態であった母を離婚させて、生活保護者になった父を半ば強制的に施設に入れた。
その後父とは絶縁しているが、生活を脅かす存在と切り離せた今は、家族全員精神的に健やかでこの選択は現時点では正しかったと後悔はない。
母がゆくゆく要介護者になった場合も、自分の生活に負担が大きくなってきたら、施設などに預けることになるだろう。
しかしそれは、受け入れてくれる施設があれば…の話だ。
父の生活保護受給も、施設探しも非常に難儀だった。生活保護の受給要件もそうだが、80歳半ばでも身体が丈夫な父には要介護が付かず、認知症の症状も認められなかったのでほとんどの施設の入所条件を満たさなかった。
窓口の方も親身になってくれる方もいれば、事務的にあしらってくる方もいて、手当たり次第に問い合わせをして親身になってくれる人に食い下がるエネルギーがなければ、道は開けなかったかもしれない。いや、ただ運が良かっただけだと振り返っても思う。
日々の介護に精神を支配されて辛うじて現状維持を保っている状態では、突破口を探すエネルギーを捻出できずに、ただ現状に耐えるだけになってしまう。
今後高齢化社会が更に加速して供給より需要が上回ったら、状況によっては母は施設に入れずに自宅介護を強いられる可能性もある。
自分も完全に安全地帯とは言えない社会の穴の淵にいる状態で、何かの拍子に穴に落ちても人間らしい生活を維持できるか。全く自信がないし恐怖を覚えるが、出来る限りの備えをして祈るしかない。
また、感情はそう割り切れるものではないのかもしれないと、この映画を観て改めて思った。
年を取って頑固さが増し、接していてストレスが溜まることは事実ながら、実害があった父と違って母には感謝の念が強い。
父に散々苦労させられながらも筆者たちを必死で育ててくれた母。
子育てが一段落する前に離婚して出戻ってきた息子と孫の世話も加わり、そして今は自分の母親の介護に身を砕く母。
その母にいよいよ介護が必要になった時、自分の人生全てを捧げて家族の世話をしてきた姿を見てきた筆者は、果たして切り離すことができるのだろうか。
母と祖母の話
「子供は世話しててもどんどん成長して出来る事も喜びも増えていくけど、老人は逆だから悲しいね」
未就学児を子育て中の筆者に、母が良く言う言葉だ。
筆者の母は介護士で、要介護4の祖母を在宅介護しているため、介護が非常に身近にある生活をしている。
あと数年で100歳になる祖母は、週3~4日デイサービスに通っているが、体は健康そのもの。
認知症はだいぶ進行していて会話は全く成り立たない状態だが、家の外に徘徊することなどはないのでその点は助かっている。
大正生まれの気丈な祖母は、筆者たち孫やデイサービス職員など“他人”にはシャンとしているものの、唯一娘だと存在を認識できている母に対しては攻撃性を露わにして暴れることも多々ある。
近くに住む筆者は、母が仕事に行っている間にたまに見守りで訪問することもあるが、祖母は寝ていることが大半で介護の実務を担ったことはほとんどない。
母も70歳に近づくにつれ、仕事でも家でも介護をする生活は肉体的に辛くなってきている。
要介護4で100歳近い祖母は、施設に入れようと思えばすぐ見つかる環境下にいるのだが、介護施設で働く母はその内情もよく知っており、
「献身的にケアしてくれる介護施設なんてごく僅か。劣悪な環境になる可能性の方が高いから、出来る限り自宅で介護したい」
「母(祖母)に世話になってきたけど何も恩返しができていないから、ここで人に預けたらきっと後悔する」
という強い希望で、在宅介護を続けている。
それこそ“愛情と負担の狭間”で、まだ愛情が勝っている状態だ。
また、筆者たち子供にもなるべく迷惑かけないようにと、母は自分で抱え込む傾向にある。そして人にお願いすると気になってしまうので、自分でやらないと気が済まないという頑固さ。
筆者たち子供は「これは母の人生の問題なんだ」と理解して、介護の実務は出来ないまでも、自宅介護の負担を減らす色々な選択肢を調べて提案したり、気晴らしに連れ出したり、介護の愚痴を聞いたりと、視野が狭くなりがちな母の精神的な支えになることを意識している。
母の職場で「お母さんが亡くなったら、何かやりたいことあるの?」と聞かれて「朝ぐっすり寝ていたい」と答えたという母。
もし今、祖母が第三者の手で命を終わらせられたとしたら、母はどう思うだろうか。
どんなにツラくても「天命」以外の決着は納得できないのだろうか。
それとも第三者の介入さえも「天命」と受け入れられて先へ進めるのだろうか。
この映画に興味を持っていた母と、今度話してみようと思う。
▼小説「ロスト・ケア」は音で聴けるAudible版も出ています。検事と犯人の緊迫したやり取りをプロの朗読で聴くのも良いですよね。